ところへ寒月(かんげつ)君が先日は失礼しましたと這入(はい)って来る。「いや失敬。今大変な名文を拝聴してトチメンボーの亡魂を退治(たいじ)られたところで」と迷亭先生は訳のわからぬ事をほのめかす。「はあ、そうですか」とこれも訳の分らぬ挨拶をする。主人だけは左(さ)のみ浮かれた気色(けしき)もない。「先日は君の紹介で越智東風(おちとうふう)と云う人が来たよ」「ああ上(あが)りましたか、あの越智東風(おちこち)と云う男は至って正直な男ですが少し変っているところがあるので、あるいは御迷惑かと思いましたが、是非紹介してくれというものですから……」「別に迷惑の事もないがね……」「こちらへ上(あが)っても自分の姓名のことについて何か弁じて行きゃしませんか」「いいえ、そんな話もなかったようだ」「そうですか、どこへ行っても初対面の人には自分の名前の講釈(こうしゃく)をするのが癖でしてね」「どんな講釈をするんだい」と事あれかしと待ち構えた迷亭君は口を入れる。「あの東風(こち)と云うのを音(おん)で読まれると大変気にするので」「はてね」と迷亭先生は金唐皮(きんからかわ)の煙草入(たばこいれ)から煙草をつまみ出す。「私(わたく)しの名は越智東風(おちとうふう)ではありません、越智(おち)こちですと必ず断りますよ」「妙だね」と雲井(くもい)を腹の底まで呑(の)み込む。「それが全く文学熱から来たので、こちと読むと遠近と云う成語(せいご)になる、のみならずその姓名が韻(いん)を踏んでいると云うのが得意なんです。それだから東風(こち)を音(おん)で読むと僕がせっかくの苦心を人が買ってくれないといって不平を云うのです」「こりゃなるほど変ってる」と迷亭先生は図に乗って腹の底から雲井を鼻の孔(あな)まで吐き返す。途中で煙が戸迷(とまど)いをして咽喉(のど)の出口へ引きかかる。先生は煙管(きせる)を握ってごほんごほんと咽(むせ)び返る。「先日来た時は朗読会で船頭になって女学生に笑われたといっていたよ」と主人は笑いながら云う。「うむそれそれ」と迷亭先生が煙管(きせる)で膝頭(ひざがしら)を叩(たた)く。吾輩は険呑(けんのん)になったから少し傍(そば)を離れる。「その朗読会さ。せんだってトチメンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回には知名の文士を招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それから僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新しい者を撰(えら)んで金色夜叉(こんじきやしゃ)にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞いたら私は御宮(おみや)ですといったのさ。東風(とうふう)の御宮は面白かろう。僕は是非出席して喝采(かっさい)しようと思ってるよ」「面白いでしょう」と寒月君が妙な笑い方をする。「しかしあの男はどこまでも誠実で軽薄なところがないから好い。迷亭などとは大違いだ」と主人はアンドレア·デル·サルトと孔雀(くじゃく)の舌とトチメンボーの復讐(かたき)を一度にとる。迷亭君は気にも留めない様子で「どうせ僕などは行徳(ぎょうとく)の俎(まないた)と云う格だからなあ」と笑う。「まずそんなところだろう」と主人が云う。実は行徳の俎と云う語を主人は解(かい)さないのであるが、さすが永年教師をして胡魔化(ごまか)しつけているものだから、こんな時には教場の経験を社交上にも応用するのである。「行徳の俎というのは何の事ですか」と寒月が真率(しんそつ)に聞く。主人は床の方を見て「あの水仙は暮に僕が風呂の帰りがけに買って来て挿(さ)したのだが、よく持つじゃないか」と行徳の俎を無理にねじ伏せる。「暮といえば、去年の暮に僕は実に不思議な経験をしたよ」と迷亭が煙管(きせる)を大神楽(だいかぐら)のごとく指の尖(さき)で廻わす。「どんな経験か、聞かし玉(たま)え」と主人は行徳の俎を遠く後(うしろ)に見捨てた気で、ほっと息をつく。迷亭先生の不思議な経験というのを聞くと左(さ)のごとくである。
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