横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立(きつりつ)して先から薄い煙を吐いている。これ即(すなわ)ち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯(ひきょう)とか未練とか云うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬(しっと)半分に囃(はや)し立てる繰(く)り言(ごと)である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成方(ほう)の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑(けいべつ)してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪(まつまき)が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴(さかな)を食ったり、獣(けもの)を食ったりいろいろの悪(あく)もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫(ふびん)である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗(のぞ)くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側(むこうがわ)で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺(へん)に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓(ガラスまど)があって、そのそとに丸い小桶(こおけ)が三角形即(すなわ)ちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒(りょう)とした。小桶の南側は四五尺の間(あいだ)板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂(おあつら)えの上等である。よろしいと云いながらひらりと身を躍(おど)らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと云って、未(いま)だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分乃至(ないし)四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と云うものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目(しにめ)に逢(あ)わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観(きかん)はまたとあるまい。
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