「そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間(てんちかん)の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相(かわいそう)だのと云う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった」
「僕の有望な画才が頓挫(とんざ)して一向(いっこう)振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒(きほう)を折られたのだね。僕は君に恨(うらみ)がある」
「馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
「迷亭はあの時分から法螺吹(ほらふき)だったな」と主人は羊羹(ようかん)を食い了(おわ)って再び二人の話の中に割り込んで来る。
「約束なんか履行(りこう)した事がない。それで詰問を受けると決して詫(わ)びた事がない何とか蚊(か)とか云う。あの寺の境内に百日紅(さるすべり)が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣(きづかい)はないと云ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭(かけ)をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢(おご)りっこかなにかに極(き)めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生一向(いっこう)稿を起す景色(けしき)がない。七日(なぬか)立っても二十日(はつか)立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼(せま)ると迷亭すまして取り合わない」
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