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十 - 14

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雪江さんは言(げん)ここに至って感に堪(た)えざるもののごとく、潸然(さんぜん)として一掬(いっきく)の涙(なんだ)を紫の袴(はかま)の上に落した。主人は茫乎(ぼうこ)として、その涙がいかなる心理作用に起因するかを研究するもののごとく、袴の上と、俯(う)つ向いた雪江さんの顔を見つめていた。ところへ御三(おさん)が台所から赤い手を敷居越に揃(そろ)えて「お客さまがいらっしゃいました」と云う。「誰が来たんだ」と主人が聞くと「学校の生徒さんでございます」と御三は雪江さんの泣顔を横目に睨(にら)めながら答えた。主人は客間へ出て行く。吾輩も種取り兼(けん)人間研究のため、主人に尾(び)して忍びやかに椽(えん)へ廻った。人間を研究するには何か波瀾がある時を択(えら)ばないと一向(いっこう)結果が出て来ない。平生は大方の人が大方の人であるから、見ても聞いても張合のないくらい平凡である。しかしいざとなるとこの平凡が急に霊妙なる神秘的作用のためにむくむくと持ち上がって奇なもの、変なもの、妙なもの、異(い)なもの、一と口に云えば吾輩猫共から見てすこぶる後学になるような事件が至るところに横風(おうふう)にあらわれてくる。雪江さんの紅涙(こうるい)のごときはまさしくその現象の一つである。かくのごとく不可思議、不可測(ふかそく)の心を有している雪江さんも、細君と話をしているうちはさほどとも思わなかったが、主人が帰ってきて油壺を抛(ほう)り出すやいなや、たちまち死竜(しりゅう)に蒸汽喞筒(じょうきポンプ)を注ぎかけたるごとく、勃然(ぼつぜん)としてその深奥(しんおう)にして窺知(きち)すべからざる、巧妙なる、美妙なる、奇妙なる、霊妙なる、麗質を、惜気もなく発揚し了(おわ)った。しかしてその麗質は天下の女性(にょしょう)に共通なる麗質である。ただ惜しい事には容易にあらわれて来ない。否(いや)あらわれる事は二六時中間断なくあらわれているが、かくのごとく顕著に灼然炳乎(しゃくぜんへいこ)として遠慮なくはあらわれて来ない。幸にして主人のように吾輩の毛をややともすると逆さに撫(な)でたがる旋毛曲(つむじまが)りの奇特家(きどくか)がおったから、かかる狂言も拝見が出来たのであろう。主人のあとさえついてあるけば、どこへ行っても舞台の役者は吾知らず動くに相違ない。面白い男を旦那様に戴(いただ)いて、短かい猫の命のうちにも、大分(だいぶ)多くの経験が出来る。ありがたい事だ。今度のお客は何者であろう。

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